野菜の世界



がらがらと崩れゆく世界の片隅を、彼は走った。
不自然な縮尺に歪んだ建築物やビルの隙間を、ただひたすらに駆けてゆく。まるでドットを打って描いたかのように、不自然なほど鮮やかな色合いをした人形、否あれは確かに人々のようであるが――それらが悲鳴を上げて逃げ惑うさまを、彼は横目に見届けるしかない。
「くそ、あいつ……っ! 一体どこに消えやがった」
視界がぶれるほど大きな衝撃に、バランスを崩してひっくりかえっているうちに、いつの間にか冬野さいの姿を見失っていた。
この奇妙な世界のことについても、今まさに起こっている異常事態についても、鍵を握っているのは、彼女をはじめとするあの妖精たちであるような気がしてならない。だがしかし、問い詰めようにも肝心の本人の姿が見えないのだから困りものだ。
本来であれば身の安全を確保したいところだが、今はそんな悠長なことを言っている場合ではなかった。正体のわからない大きな力によって、街は滅茶苦茶に破壊され続けている。
建物の隙間から時折、チラチラと見え隠れする巨大な戦艦――まるで角ばった立方体に、針金で作った足がいくつも生えているような外観をしているのであるが――その意思が欠落しているらしい何かが、洒落にならない音を立てて色鮮やかな光線を撃ち放ち、街を焼き焦がして回っているのだ。
お蔭で道路上には転々と乗り捨てられた無人の車、郵便配達のバイク、広告の破けた自動販売機。上空を滑空する線路の半ばには、ぶら下がったまま固まっているモノレールが目につく。あんな高さからどうやって人々が避難したんだか、彼にはてんで想像がつかない。

「い! ……くそっ」
そうこうしている間にも、何かが頬を掠めて後方に飛んで行った。眉を顰めながら手の甲を滑らせれば、砕けた硝子の破片がこびりつく。
「……」
前方には屈折して切り出されたビルの残骸が、終わりのない坂道のように曇天へと繋がっていた。あの急傾斜をよじ登って、あいつらに合流するのが先か、それとも敵に狙い撃ちされるのが先か。
「……或いは、俺が足を踏み外して自滅するのが先か、だな」
三つ目の選択肢だけは避けたいところだ、と盛大に顔をしかめながら、彼は突き出した鉄骨に足を引っかけた。とにかくこの人混みの渋滞から抜け出さなければ、あの奇妙な三人組を見つけ出すことは困難だ。彼は膝の皿に力を込めて、体感的にはほとんど直角に思える急斜面をよじ上ってゆく。突き出したボルトを引っ掴み、上体を引き上げて一息をついた、まさにその時だった。

「王子くん!」
カッ、と後ろから光が差し込み、彼は咄嗟に身を竦ませて静止する。すると、掴んでいたボルトから手が滑り、彼の身体はうわりと宙を踊った。落ちる、という言葉が滑るのとほぼ同時、手首をがっしと鷲掴みにされて、彼は目を白黒させる。振り返れば、白一色の少女がにっと歯を見せて笑っていた。
「やあ、見たかい王子くん! 野菜食べてれば、こんなことも楽勝なのだよ!」
さすがは素手で地面を割る怪力の持ち主だ。落下途上の身体はみるみるうちに引き上げられ、かつてコンビニであったはずの建物の屋上に着地した。
「蓮音こん、あんたか。……助かった。ありがとう」
「ふへへ」
見るからに物騒な武器――あたかも巨大なリボルバーを三丁くらい組み合わせたような――を背負った少女は、鼻を鳴らして実に得意げだ。しかし、彼女の怪力と野菜の力はほぼほぼ関係ないんじゃなかろうか。だいたい、自分よりも40センチ以上大きい男を、難なく持ち上げること自体おかしな話だ。
「……あんた、ほんとにすごいんだな。まるで特撮映画のヒーローか何かみたいに……」
「こんな時に冗談なんておよしなさいな、王子くん」
すると、うさぎのように跳ねていった蓮音こんと入れ替わりに、探していた人物がようやく登場した。
「野菜が『ユースティティア』だなんて、とんだ御伽話ね」
「冬野さい……」
名を呼べば、麗しの令嬢は「ごきげんよう」とスカートの端をつまんで一礼する。彼は胡坐をかいたまま片眉を跳ね上げた。
「俺はあんたを探してた。今までどこに行ってたんだ」
「それどころじゃないことくらいわかるでしょう? あいつらと戦えるのは私たちを含む限られた存在だけ。今、こんちゃんとまとちゃんがビタミン銃を使って食い止めてるけど、それだっていつまで持つか……」
ちらりと向けられた視界の隅では、蓮音こんが巨大なリボルバーを乱射している。先ほどの戦艦が発していたレーザービームと似通っているが、あれがビタミン剤だとは一体誰が信じられるだろう。
「……この世界のことを聞きに来た」
立ち上がって真っ直ぐに視線を合わせると、冬野さいはぱちりと睫毛を瞬いた。
「……。そのために、私を追ってここまで?」
「悪いか」
「いえ、ううん……違うの。驚いただけよ。こんなこと、今までには……」
ぽそり、と何事かを言いかけた冬野さいは、はっと目を見張って首を振る。
「……そうね。今のあなたになら、言えるかもしれない」
「……?」
「あのね、私ずっとあなたに謝りたいと思っていたの。ここでは世界は野菜を中心に回ってるでしょう。私たちにとっては夢みたいな世界だけれど、こんな不自然な世界にあなたを巻き込んでしまうこと、いつも心苦しくて堪らなかった」
「何を……」
「さようなら、王子くん。できればこれからは、元気でいてくれると嬉しいわ」
向けられた餞の言葉は、ほとんど音にすらなっていなかった。うらり、と木の葉のように身を翻し、彼女の姿が視界から消える。慌てて駆け寄った急勾配は、あたかも切り取られた崖のようで、その高さから難なく飛び降りた彼女に改めて度肝を抜かれた。
「お、おい――」
「こら、ぼさっとしてる場合じゃないよ、王子くん」
ぽす、とジャケットごしに肩を叩かれて、彼は背後を振り返る。
「――。蕃歌まと」
「うん」
呼ばれた名前を聞き届け、彼女はガーネット色の瞳をゆっくりと細めた。
「……そろそろボスのお出ましだよ」
つ、と示された指先を追いかけて、彼もまた同じ方角へと視線を凝らす。
粉塵が舞う鈍色の空の下、雷雲のような靄を纏って降り立ったのは、先に見た戦艦を何千、否何万と集めたような、禍々しい戦闘機だった。
巨大な鯨のような形をした本体は、荊のような棘でびっしりと覆われ、その隙間からは黒光りする筒がにょきにょきと突き出している。
本能的な恐怖に、ざわざわと背筋が冷たくなった。現実から逃避する余裕すらない。
「馬鹿げてるだろ、あんな、……」
ひとりごちた声は、不快にざらついたまま事切れた。いつの間にか人々の潰えた街並みに、巨大な孔のような影が落ちてゆく。ざり、と足を踏み出した彼女を見て、彼はへたり込んだままわずかに視線を上げた。
「……あんたも行くのか、蕃歌まと」
「今度は着いて来るのは無しだよ、王子くん」
こちらを顧みることなく、蕃歌まとが静かに唇を開く。彼は眉を顰めた。
「――何故だ?」
煤けた頬に向かって尋ねかえすと、蕃歌まとはどこかほろ苦く笑って、「理由を尋ねてきたのは初めてだね」などと、微かに震えた声を落とす。

沈黙を破ったのは冬野さいのさけびだった。崩れた瓦礫の山を飛び越えて、迷いなく戦艦の真下まで潜り込んだ彼女は、横飛びの姿勢のまま一回転し、両腕を伸ばして銃を乱射してゆく。
やがて掠けた音とともに光線が途切れると、「ああもう! まだるっこしい!」と忌々しそうに舌を打った。そのままエネルギー切れした銃を放り出すと、地上に立ちすくんだまま大きく両手を広げる。
――その光景を目の当たりにした彼は、思わず我も忘れて声を荒げた。
「おいあの馬鹿! 何してる! 早く逃げろ!」
「ん? どうしたんだい王子くん」
「なんでそんな平然としてる! 早く助けないと、あいつが……!」
「いいんだよ」
蕃歌まとが小さく肩を落とした。
「……言ったじゃない、そういうふうに『できている』だけだって」
――ふ、と底冷えするような沈黙が辺りを満たす。
瞬間、赤く燃えさかる無数の光の矢が、黄緑色の淑女に向かって一斉に放たれた。矢は地上に到達した途端炸裂し、彼女の姿は瞬く間にかき消される。
「!? なんッ、で……!」
すると、呆然自失に喘ぐ彼の目前で、それは起こった。彼女の立っていたその場所から、先ほどのレーザービームよりも何千倍もまばゆい光が放たれる。光の螺旋を直に受けた戦艦は、轟音を上げながら破片を散らし、煙を上げたまま大きく傾いだ。
「は……?」
頭の中で思考の糸が縺れ、うまくまとまらない。かろうじて思いついたことといえば、冬野さい、否、野菜の妖精の身体そのものが強力なビタミン剤のようなもので、彼女は自ら攻撃を受けて自爆することによって、その効能を発揮したのだという結論だった。

絶句して声を失う彼の傍らで、蕃歌まとは鼻歌交じりに自らの銃の残弾数を確認している。豊かなチョコレート色の髪の毛に隠されて、その表情はうかがい知れなかった。
「この世界は、何かが少しずつ変わり始めてる。だけど、ねぇ王子くん、……君は、きっとこれだけは永遠に理解できないって言い続けるんだろう。だって、君はやさしい人だから」
穏やかな声で告げながら、蕃歌まとはトン、と軽やかに壊れたビルの上に飛び移る。ともすれば瓦礫の悲鳴にかき消されてしまいそうなほど、僅かなささやきだった。
「君の知る限りでは59回目くらいかな、でも実際のところはもっとずっとたくさん、それこそ何億回にも及ぶんだ、この繰り返しは」
「……どういうことだ」
「いま、君の身体は危機に陥っている」
こんなことが前にもあったんだよ、と蕃歌まとは懐かしそうに笑った。
「君がかつて、栄養失調で高熱を出したとき。……あのときも、さいちゃんは真っ先にああして飛び出していった」
「それじゃ、あんたたちは」
頭ががんがんと鈍く痛んで、彼はくしゃりと顔を歪めた。
「こんな戦いを、……何度も?」
「……」
彼女は答えを示さない。ただただ、爆風の中でゆうるりと目を細めただけだった。
オレンジ色に照らされる彼女の白い頬を、彼は成す術もなくぼんやりと眺める。
束の間の平穏のさなか、守っても守っても、こうして同じように崩れゆく未来を、彼女たちはどんな思いで見つめて来たのだろう。
「そんな顔はやめて、王子くん。きっと君が思ってるよりずっとずっと、私たちは前に向かって進んでる。確かに叶わない祈りはたくさんあるけど、それでもいつだって、未来に残せることを探してる」
ミリタリーワンピースを颯爽と翻し、彼女は目元を細めて力強く告げた。
「……だから大丈夫。奪われた君の世界は、私たちが取り戻す。何度でも、何度でも」
「蕃歌まと!」
呼び止めた声は意味をなさず、彼女の背中は指先をすりぬけて遠のいていった。

――彼女が飛び降りたその先の景色を、彼は知らない。


>>第五話


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