明るい別れ



膝から下、爪先にいたるまでのすべてが、鉛のように重く上手く持ち上がらない。
どこも怪我などしていないし、体力だってまだ残っている。しかし、凄まじいほどの倦怠感、そして尋常でない寒気が全身を蝕んでいた。音が鳴るほど強く歯を食いしばって、じくじくと疼く関節痛に耐える。
「……なんだってこんなことに」
ぼやいてみたところで、状況は何も変わらない。知ってた。
滴る汗を染み込ませたシャツは、今や絞ったら不味い俺ジュースが出来そうなほど重たくなっている。そこまで濡れた服に、真横から猛烈な潮風が吹き付けてきたらどうなると思う? やめてくれ凍るぞ寒い。勘弁してくれと叫んで、狂ったように頭を掻きむしりたいくらいに、寒い。とにかく寒い。
揺れる視界に目を凝らしながら、それでも立ち止まったら何かが終わってしまうような気がして、俺は歩く。ぜーぜーと肩の上で息を切らせながら、なんとか歩き続ける。

――燦然と輝く一縷の光を合図に、爆撃の轟音は嘘のように止んでいた。
それがあの赤い妖精の選んだ末路であったことくらい、認めたくないが今の俺にはわかる。嫌ってほどわかる。
もしあいつの語っていたことが真実だとすれば……さしあたって今の状況は、ありとあらゆるビタミン剤を投下し、そのおかげで症状そのものは収まったものの、あとは自分の気合と体力で治すしかない、といったところか。
あーあ。今、俺の体温どのくらいまで上がってるんだろうなー。考えようとするとくらりと血の気が引いて、視界の端から順にホワイトアウト。慌てて頭を振ろうものなら、今度は鈍器で殴られたような痛みが襲いかかってくる。
もうだめだ、これ以上歩きたくない、だるい、しんどい、このままでは死んでしまう。ぐるぐると喉の下で獣のような唸り声を上げていると、それは唐突に現れた。
――果てがないと思われていた瓦礫の道。そのぼんやりと霞む地平線の中に、くっきりとした白い人影が映ったのだ。

「っ!」
喉元が締め上げられるような衝撃を覚えて、はく、と慌てて一つ呼吸を注ぎ足す。もつれそうになる足を叱咤して、これが最後だと言わんばかりに歩みを再開した。見慣れた小さな後姿が、じりじりとじれったく、それでも確実に近づいてくるのがわかると、何故だか無性に泣きたい気持ちになる。情けないとか女々しいとかそんなもん知るか。あんな正気度下がりそうな現象にホイホイ巻き込まれといて、今さら他人面なんてしてられないんだよ。
しかし、だ。ぼろぼろに擦り切れたスニーカーが、さっきから岩肌を削ってざりざりと喋っているというのに、彼女は崖の一番縁に佇んだまま、一向にこちらを振り返らない。わざとらしく咳払いまでしてみたけど、やっぱり何も聞こえてないみたいに無反応だ。
ふつふつと不安が募って来た。……なんだろう。あいつはもう、俺の知るあいつじゃないのだろうか。
「おい。……。おい……! そこのれんこん星じ」
「ほあー! 見て見て王子くん!」
途端、ぐりんっ、と青い二対の瞳が突然こちらを振り返ったので、俺は「ほあー」と奇声を上げて三歩後ろに退いた。ついでにそのままスニーカーの紐を踏んづけて尻から転倒する。何故だ。俺がいったい何をしたっていうんだ!
「な、なんだ!? 何事だ!?」
「こっから見える景色、すぅごいんだよ!」
両腕をぶんぶんと振り回して、蓮音こんは興奮さめやまぬ瞳をキラキラと輝かせる。
「景色ぃ……?」
「うむ、そうじゃ! ささ、近うよれぃ」
何故か意味もなく殿様言葉になった蓮音こんが、俺の背中を押してどんどん崖っぷちにけしかけてくる。やめろ殺す気かこのやろう。
しかし、促されるまましぶしぶと前へ進み、塀に隠されていた景色を目の当たりにした途端。
「――街が」
無意識のうちにこぼれた声は、力なく震えていた。40センチ下で、蓮音こんがにへらと笑っている。心臓が止まりそうなほど強い風が、ぶわっと前髪を分けて通り過ぎていった。
「よみがえっ、て……?」

眼下に広がっていたのは、巨大なトウモロコシの樹を中心にして聳える、彼女たちの暮らす街のジオラマだった。
鱗をはたいたような帯状の地震雲を背景に、鉄筋よりもずっとやわな木の根を支えにして、街は危なげに揺らいでいる。
色鮮やかなネオンカラーのパラソル、レンガ作りの屋根と四季のイングリッシュ・ガーデン。干しっぱなしの布団はひらひらとはためき、青い玻璃の階段は天に向かって螺旋状に伸びていた。陽光を浴びて白く輝くコンクリートの塊が、アーチ型の橋に繋がれて浮かび上がる様は、まるで青空に浮かぶ島々のようにも見える。
「くーっ! やっぱりここは風が気持ちいいのぉ」
そう言って、やんちゃ盛りの少年のように両腕を真上へ伸ばし、思い切り背中を反らす蓮音こんの隣で、俺はこみ上げてくる苦笑を禁じ得なかった。
彼女もまた、今までもこれからも、あの赤く燃え盛る光の束になって、戦艦を打ち落としに行くのだろう。一人だけ何も覚えていないように見える彼女は、唯一、それだけを知っているような、そんな気がした。

俺がそんなことをしみじみと考えている間に、蓮音こんもまた何事かを考えてたらしい。下から見上げて来る難しげな眼差しを受けて、俺はようやく彼女の顔を見下ろした。
「……どうした」
「ねぇねぇ、王子くんや」
「なんだ、こんなときに」
「王子くんとこうしてるのは、たぶん初めてだと思うんだけどさ」
言いながらもどこか確信には至らないのだろう、蓮音こんは華奢な首をこてんとかしげている。
「最初に会ったときから、なーんか話したことあるようなーないようなーって思ってたんだけどさ、今ようやくわかったよ。あたしが最初に野菜の国を出たときに、道を教えてくれたひととそっくりなんだよね!」
「……は?」
がらがら、と背後で瓦礫の山が崩れる音がした。けれど、ぼろぼろに朽ち果てた世界の中で、彼女の周りだけが、何故だかぽうっと明るく灯っているように見えた。
「つってもだね、ほんとのところはよく覚えてないんだ。その人とどのくらいの間いっしょにいたのか、どんなつながりだったのか、どんなことをお話したのかだって、なーんも。……でもね、その人がきっとなんだか、たいせつでやさしいひとだったんだろうな、とは思うわけだよ」
彼女の言っていることが嘘なのか本当なのか、思い違いなのか真実なのか、俺はとうとうわかずじまいだった。まぁそれでも、彼女が彼女なりにとても真剣そのものなのだということだけは、とりあえずわかってやろうと思う。
「いまこの瞬間は、この一回きりかもしれないけどね。そうこう言ってるうちに、またいつの日かどこかで君と出会って話して、あわよくばほんのわずかでも、目覚めた君の記憶の中にちまーっとね、あたしやまとちゃんやさいちゃんが、残ってるかもしれないなんて思うと、なんだかね、胸がどっきどきしてワックワクなんだ!」

ああばか、やめろ。

ぐっと嗚咽のかたまりがこみあげてきて、俺は唇を噛んだ。何をどうしたらいいのかわからなくて、目の前でころころ笑っている白い頭を、ぐっしゃぐっしゃに掻きまわす。
どうしてそんなこと言うんだ。そんなの、だって、俺にはどうしようもないことじゃないか。だいたいな、他の二人と違って、あんただっていつも何も覚えてないくせに。初めてライバルが出来たとか言って、あんなにうれしそうな顔してたくせに。っつか、なんで俺ばっかりこんなふうに責められなくちゃいけないんだよ。これだから嫌いなんだ、野菜なんて。苦くて酸っぱくて、しかも最後まで舌に残って後味が悪い。
「……だいきらいだ」
眉間に力をこめて負け惜しみを告げると、蓮音こんは「そうこなくちゃ!」と応えてニカッと笑う。よくわからないけど、その底抜けの明るさがひどく悲しくて、けれど同時に何かが救われたような心地がした。
「あたしたちはいつの日だって、君と共にいる。で、あわよくばいつの日か、君の心を灯すことができたらなって、かるーい気持ちで願ってる」
にいーっ、と白い歯を見せて、蓮音こんが笑う。……たぶん、軽い気持ちなんて嘘なんだろうけど。
くしゃっと醜く顔が歪むのを感じながら、それでも俺は、頷いた。
「王子くん」
花びらのような声とともに、とん、と少女が崖を蹴って飛び立つ。色素の薄い手をふった笑顔が、刹那の間だけ、網膜に焼き付いてすぐに消えた。
「……いってらっしゃい!」
ああ最後なんだな、と俺は目を閉じた。



鳴り響くアラームの音で、目が覚めた。
もそもそと布団を掻き集めて身体を起こし、そんでもって襲って来た鈍い頭痛と、言いようのない気だるさに「ぐおう」と呻く。
……何だろう。何やらものすごく疲れる夢を見た気がするのだが、気のせいだろうか。よく夢というのは本人の深層心理を表していると聞くが、内容を思い出せないのでは意味がない。まぁ、おおかた仕事に追われる夢とかそのあたりだろう。というか、それぐらいしか思い当たる節がない。
カレンダーをちらりと流し見し、ひとまず今日は可燃ごみの日だということで、それだけでも出しに行くかと立ち上がる。が、何故だか前日にまとめていたはずのごみ袋が見当たらない。首を捻りながら家を出れば、アパートの管理人さんとばったり出くわしてしまった。
あ、俺いま寝起きジャージ……とか内心ぼやきながら、「……はよございます」と頭を下げる。その後頭部に、思いもよらぬ一声がかぶさってきた。
「あらま王子君。熱はもういいのかい?」
「……熱?」
んんんこれは一体いつの話だ?
頭を上げた状態のまま呆けていると、管理人さんは信じられないものを見たように目を吊り上げている。
「まさか覚えてないのかい!?」
「えっなんだろうごめんなさい」
昨日の俺は怒鳴られるようなことをしてしまったのか! ちくしょうどこに逃げやがった昨日の俺! 叩きのめしてやる!
「いやいや、怒ってるわけじゃないんだけどね。単にびっくりしただけで……つい昨日、学童の先生方がいらっしゃったんだよ。王子君が連絡もせずに欠勤してるから、心配して様子を見に来たってね。何かあったんじゃないかって、慌てて合鍵渡してみんなで部屋に入ったよ。そしたら王子くんたら、布団に包まって起きれなくなってたじゃないか」

「……」
なんとなく、だが。言われてみれば確かに、心配そうにこちらを覗きこんでいる先輩方の顔を思い出したような気がした。しかし、まさか無断欠勤した一職員の家に立ち寄ってくれるとは思いもしないので、言われなければこれもまた夢か何かだと思い込んでしまっただろう。それくらいに、曖昧な記憶だった。
おそるおそる、自分の額に右手を押し当ててみる。うん、確かにまだなんか熱っぽいような。今朝方ひどく骨の折れる夢を見ていた気がするのは、おそらく熱に浮かされていたためだったのだろう。
「……すいません。そのあと学童の皆さんは……」
「ああ、いろいろお見舞いの品置いて帰っていったよ。明後日は祝日だし、当分は休んでいて良いそうだ」
「なんかほんとすいません。俺、マジで何も覚えてなくて」
「いいっていいって。あとでちゃんと職場のメール確認しておくんだよ。それより体調は大丈夫なのかい? 仕事で忙しくて、ちゃんとご飯食べてないんじゃないだろうね」
「う……」
なんという鋭さ。このおばちゃんエスパーか何かか。
言われるまでもなく図星だった。近頃は仕事が忙しくて、職場でもほとんど昼食を食べるタイミングを失っていたし、朝も夜も睡眠時間を確保するために、ろくに料理をするでもなく、節約にちょうどいいとか言ってコンビニ弁当で済ませていたのだった。

冷や汗タラタラで黙りこくっていると、管理人さんは重苦しい溜息を吐いた。
「全く……どうせそんなことだろうと思ったよ。今日はサービスだよ。隣の田中さんが里帰りしたって言って、持ってきてくれたんだ。二度寝する前にこれをお食べ」
「え、」
「好き嫌いしないでちゃんと食べるんだよ。こんなに新鮮な野菜、めったに食べられないんだから」
「や、とんでもないっす、これ、だって俺、お礼とか」
「いっちょまえにお礼したいなら、一日でも早く元気になることだね」
大阪のおばちゃんの体内時計は早い。渡すものを渡して満足したのか、管理人さんはひらひらと背中越しに手を振りながら立ち去ってしまった。取り残された俺は、近所の野良猫の喧嘩をBGMに、しばしの間呆然と立ちすくむ。……が、壁の隙間からそよ風が舞い込んだだけで、ぶるりと大げさなほど身体が震えあがった。そうだ、確かまだ熱が下がり切っていないんだった。
大急ぎで玄関に逃げ込み、鍵をかけてほっと一息をつく。のろのろとふらつく足を引きずって部屋に戻ると、先輩たちが買ってきてくれたのであろう、冷却シートやらウィダーインゼリーやら、栄養ドリンクやら納豆巻(※何故そのチョイス)が、サイドテーブルに所狭しと並べられていた。よくよく見れば復帰を願う寄せ書きみたいなものまである。なんだ、この重病患者感。そんなにひどい形相で寝込んでたのか。
これだけの量の見舞い品、むしろ何故起きあがった瞬間に気づかなかったのかが驚きである。これもまた体調不良のなせる業というやつか。

迷惑をかけた旨とお礼をメールにしたため、ようやく落ち着いて管理人さんから受け取った包みを開く。
中身はサンドイッチとヨーグルトだった。ハムとレタスの間にちょこんと鎮座する、輪切りにしたトマト。おそらく、これがお隣さんのおすそ分けと言っていた野菜なのだろう。なんだろう、野菜とはこんなに鮮やかな色をしていただろうか。まるで作り物のようにつやつやとしたその野菜から、何故だか目が離せなくなった。
ちらりと時計を見遣る。時刻はすでに八時半を過ぎていた。早い内に眠って治さないと、職場に溜め込んだ仕事が山脈になってしまう。もう一度テーブルの上に視線を戻す。ごくり、と心なしか苦味のある唾を飲み込んで、吹きだす汗を無理矢理押しとどめた。
……仕方ない、今日くらいは観念してやろう。どうせいつか食べなければならないのなら、できる限り早くすませてしまいたい。俺はやわらかなパンをぎゅうと握りしめ、かたく目を瞑ったまま口を開いた。
歯を立てた瞬間、口の中でぷしゅっとみずみずしい種を弾ける。いつもはこのあたりですでに眩暈がしそうなくらいなのだが、今日は途中で逃げ出すわけにもいかず、震える舌の上にそっと種を絡ませた。
途端、さわやかな酸味がすがすがしく口の中を駆けてゆく。え、と目を見開いて、信じられない思いを抱えたまま、恐る恐る顎を動かして咀嚼した。果肉からほのりと香る甘味と、あとからあとから溢れて来る新鮮な酸味。それらが舌の上で混ざり合って、まるで芳醇な果実のような奥深さを伝えて来る。
俺は口許を覆った。何故だかわからないが、自然と口の端がにやけてしまう。

「……なんだ。意外とうまいじゃないか」

――遠くから、もう覚えていない誰かの得意げな忍び笑いが聞こえたような気がした。


-END-


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