トマトの妖精



雨。
どこからか声が聞こえたような気がして、彼は捲りかけていたページをもとに戻した。
「降ってきたみたいだね」
あまりに沈黙が続くので顔を上げると、いつの間にか目の前の席についていた少女が、こちらを見つめていた。赤い瞳が夕焼けのように目を刺すのが、まぶしくてならない。
この少女がいつからここに座っていたのか、彼にはわからなかった。気が付かなかっただけで、実はずっと前からこの席に座っていたのかもしれないし、彼が本に熱中している間に、そっと椅子をひいて腰かけたのかもしれない。
ともあれ、ここまできてようやく自分が話しかけられていることに気が付いた彼は、こくりとひとつうなずきを返した。
「そうだな」
くすり、と快い音色で彼女が笑った。
それは、こちらの反応を楽しんでいるというには、あまりに純粋すぎたので、彼はほんのすこしだけ面食らう。
傘は持ってきた?
いや、もってきてはいないな。
でも、慌てないんだね。
そのうちやむかもしれないだろう。とりあえず、今は考えたって仕方ないさ。
それはそうかも。

話をつづけてゆくうちに、ふと、そういえばこの少女は自分の知り合いだっただろうか、と思い始める。あまりに自然に会話が続いてゆくので、ついそんなことを考えてしまったのだ。
しかし、改めて彼女の伏せられた顔を見つめてみるものの、やはりその顔に見覚えはないのだった。
もしかしたら、遠い昔に出会ったことがあるのかもしれない。思わずそんなことが頭の中をちらつきはじめたころ、彼女は唐突に切り出した。
「こんちゃんと会ったでしょ」
素直にうなずくと、彼女はようやく本から目線を上げた。
「いつもどおりだった?」
「いつもどおり、って」
だって、彼女と会ったのは初めてであったはずだ。そう返そうとすると、少女はまるでその先の言葉を押しとどめようとするかのように、流れ落ちる髪の毛を耳にかけた。
仕方なく、ふと頭の中をよぎった言葉を口にする。
「あんたも、あいつと同じ妖精か何か、なのか」
「わたしは蕃歌まと。トマトの妖精」
たおやかな笑みに告げられて、またしてもげんなりする。
トマトか……トマトにはあまりいい思い出がない。今でこそガタイがいいが、昔は身体の弱い子供だった。ゆえに父母が栄養のあるトマトを食べさせようと躍起になり、無理矢理食べさせられた王子は全部吐いてしまって、それが逆にトラウマになってしまったのだ。

「それは決して君だけではないよ、王子くん」
朗々と詩歌を読み上げるような口調で、彼女は思い出したようにつぶやく。
何故だか彼女は、彼の名前を知っていたのだった。
「もしかすると、他のみんなも言い出せないだけで、実は苦手な野菜をひとつふたつ、心のうちに秘めているのかも知れない。ほら、感謝と好みはまったくべつの感情だからね。愛されることへの感謝と、愛することは直接的なイコールにはなり得ないでしょう? それと同じようにさ」
「……あんたも、そうなのか?」
思い出したように問えば、ふるふると首をしならせた。
「わたしは逆。いまもなお、誰かひとりでも多くのひとが、野菜を愛してくれることを願ってしまっているから」
「……そうか」
ふいに不機嫌そうな声が口をついたが、彼女はふふっと気持ちよく笑った。
「悲しいとか、寂しいとか、そういうものは関係ないの。ただただ、わたしたち野菜は人々から嫌われるように『できている』。それだけの話だよ、本当に」
それだけなの。最後にもう一言だけ付け加えて、口をつぐんだ彼女の瞳は微笑みをたたえていて、彼はふしぎな思いを突き返すように、いつまでもいつまでもそれを見つめ続けていた。

ぱたん、と閉じられた分厚い本から、伸び上がる風圧。
まっすぐに切りそろえられた彼女の前髪が、一瞬だけふわりと舞い上がる。
「王子くんには」
「ん?」
「わたしの保証人になってほしいの」
「保証人?」
「そう。“存在”保証人にね」
何かを悔いるように、自嘲するように、告げられた言葉の意味を問い返そうとして、ようやっと上げた視線の先にはもう彼女の姿はなく。
「……うわ」
いるようでいない少女の存在を証明するべく、彼はひっそりと溜息を吐き出したのだった。


>>第三話


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